旅する情シス Season 3 #1 辞令


2月の終わり、

呼ばれた会議室は、いつも査定の話をされる部屋だった。

上司の佐藤課長の向かいに座りながら、僕は窓の外の曇り空を一瞬だけ見た。

「三浦くん、来月から情報システム部だ」

僕の名前は三浦 誠。35歳。

ベル商事の営業として5年間、取引先の小売店に食品を売りながら、経営の相談にも乗ってきた。

その前の5年間は、サン食品で現場を走り回っていた。

合わせて10年間。ずっと、人の顔が見える仕事をしてきた。

担当していた得意先の店長が、売上データを見ながら言った言葉を、今も覚えている。

「三浦さん、この計画通りにやったら、本当にポルシェ買えますかね」

「数字は嘘をつきません」

そう答えた瞬間、店長の顔が子どものようになった。

数字で人の夢を形にする——それが、僕の仕事だと思っていた。

そしてその5年間、ずっと同じ部署を希望し続けていた。

情報システム部のデータ分析課。

ついに、と思った。表情には出さなかったけど。

「何課ですか」

上司は少し間を置いた。その一秒が、やけに長く感じた。

「システム運用課だ」

僕は何も言わなかった。うなずいて、立ち上がって、一礼して部屋を出た。

廊下に出ると、誰もいなかった。僕は足を止めて、天井を一瞬だけ見上げた。

システム運用課、、

希望していたデータ分析課ではなかった。でも情シスには変わりない。

たぶん、、

その「たぶん」が、妙に引っかかった。廊下を歩きながら、何度か打ち消そうとした。でも消えなかった。


3月、最後の営業の日、

異動の前日、僕は担当していた得意先を一人で回った。

特に意味はなかった。ただ、行きたかった。

最後の店を出るとき、店長の田中さんが言った。

「三浦さん、異動するって聞きました。寂しくなりますね」

「ありがとうございます」

「情シスって、どんな仕事するんですか」

「……まだ、よく分かっていないんです」

田中さんは少し笑った。

「三浦さんらしくないですね」

帰り道、電車の中で、その言葉を反芻した。

三浦さんらしくない。

そうかもしれない。

営業のとき、「分からない」と言ったことはほとんどなかった。

数字を見れば、何をすべきかが分かった。

クライアントの話を聞けば、何が問題かが分かった。

情シスは——まだ、何も分からなかった。


4月1日、

情シスフロアに初めて足を踏み入れた朝、僕はしばらく入り口で立ち止まった。

営業フロアとは空気が違った。静かで、整然としていて、どこか病院の廊下に似た雰囲気があった。

全員が画面を向いていて、誰も顔を上げない。

アウェイだ。

率直に、そう思った。

自分の席を見つけて座ると、隣の席の男が話しかけてきた。

30代半ば、目の下にうっすらクマがある。中田、という名札がついていた。

「三浦さんですよね。営業から来たって聞きました」

「ええ」

「情シス、希望したんですか?」

「5年間」

中田は目が覚めたような顔をした。それから、何かを値踏みするような目になった。

「……正気ですか?」

僕は前を向いたまま答えなかった。

正気だ。たぶん、、

中田はそれ以上何も言わなかった。でも、その後も何度か、横目でこちらを見ていた。

サン食品で現場を走り回っていた頃、こんな目で見られたことはなかった。

ベル商事で営業をしていた頃も、なかった。

ここでは——まだ、何者でもない。


最初の仕事を告げられたのは、午前10時だった。

上司の長嶋課長は40代で、背が高くスマートな体格をしていた。でも目が優しかった。

営業時代に何人か見てきた「怖い上司」とは、どこか違う種類の人間だと、最初の3秒で分かった。

「三浦くん、さっそくだが最初の仕事を頼んでいいか」

「はい。なんでしょう」

「あの書庫、片付けてくれ」

書庫を見た。

ファイルが雑然と積まれた棚。付箋だらけのバインダー。何年分かわからない書類の山。何かのプリンター。

そして隅っこに、なぜかゴルフボールが一個、ひっそりと転がっていた。

書庫の片付け。

35歳。10年間、人の顔が見える仕事をしてきた人間。最初の仕事———書庫の片付け。

僕はゴルフボールを拾い上げた。

「……誰のですか、これ」

中田が遠くから答えた。

「あ、それ前任の課長のです。そのままにしといてください」

なぜ。

長嶋課長はもう自分の席に戻っていた。

周りの先輩たちは、誰も僕を見ていなかった。見ていないのか、見ないようにしているのか、分からなかった。

僕はここで、何をするんだろう。

その問いに答えられないまま、埃を払い始めた。


午後2時を過ぎた頃、棚の奥に手を伸ばすと、ファイルの山の裏に別の山があることに気がついた。

引っ張り出すと、日付の古い書類が大量に出てきた。5年前、7年前、10年前——。段ボール3箱分はある。

どうするんだ、これ。

捨てていいのか、残すべきなのか、判断できなかった。

長嶋課長に聞こうとしたが、外出中だった。仕方なく、中田さんに聞くしかなかった。

「中田さん、この古い書類なんですが、捨てていいものかどうか——」

中田さんは画面から目を離さずに答えた。

「自分で判断できないんですか」

それだけだった。

営業のときは、こんなことはなかった。

分からないことは、クライアントに聞けばよかった。得意先の店長に聞けばよかった。

でもここでは——誰に聞けばいいのかも、分からない。

助けを求めた先で、扉が閉まった。そういう感覚だった。

結局、古い書類は全部、棚の端に仮置きにした。判断を先送りにした。

これでよかったのか。

分からなかった。


夕方、長嶋課長が戻ってきた。書庫の前に立って、静かに言った。

「三浦くん、ある大手メーカーの工場の話を知ってるか」

「いえ」

「その工場では、工具の置き場所を1センチ単位で決める。取り出す動作を0.1秒削るために。

 それを何千回と繰り返すことで、生産性が変わる」

長嶋課長は書庫を眺めた。

「この棚も、同じだ。

 このファイルは週に何回触られるか。この棚の位置は、誰が一番使うか。取り出すのに何歩かかるか

 ——全部、考えながらやってみなさい」

それだけ言って、長嶋課長は去った。

僕は書庫を見た。さっきまでと、同じ書庫だった。でも、違って見えた。

手を動かしながら、長嶋課長の言葉を反芻した。

営業時代、得意先の売場導線を考えたことがあった。

どこに何を置けば、お客さんの手が自然に伸びるか。それと同じ発想だ。

情シスの仕事も、人の動きを考えるところから始まるのかもしれない。

気がつくと、窓の外がオレンジ色に染まっていた。

「お茶」

長嶋課長が湯呑みを二つ持って現れた。

僕の隣に立ち、整理しかけた書庫をしばらく眺めた。

「三浦くん、このフロア、一坪いくらか知ってるか」

「いえ」

「書庫一つにも、コストがある。どこに何を置くかで、人が動く時間が変わる」

僕は手を止めた。

「時間が変われば、生産性が変わる。生産性が変われば——会社が変わる」

長嶋課長が僕を見た。

にやりと笑った。営業時代に見てきた「数字の話をする顔」とは、少し違う笑い方だった。

「情シスの仕事はな、三浦くん。地味に見えて、会社の血液なんだ」

「……血液」

「どこかが詰まれば、会社全体が止まる。どこかが流れれば、会社全体が動く。書庫の片付けも——同じだよ」

長嶋課長は立ち上がり、去り際に振り返った。

「ああ、そのゴルフボールは捨てていい。前任の課長、3年前に辞めたから」

僕はゴルフボールを見た。

3年間、誰も捨てなかった。

情シスとは、そういう場所らしい。


夜。片付き終わった書庫の前に、一人で立った。

整然と並んだファイル。すっきりした導線。でも棚の端には、判断できなかった古い書類が、まだ積まれていた。

仮置きのまま、今日が終わった。

帰り道、電車の中で、長嶋課長の言葉を反芻していた。

「仕事は考え方次第で、いくらでも付加価値を拡大できる」

その言葉は分かった。でも——

中田さんに扉を閉められた感覚と、判断できなかった古い書類が、まだ胸に引っかかっていた。

営業のとき、分からないことはほとんどなかった。

ここでは、分からないことだらけだ。

電車の窓に、自分の顔が映っていた。

ポルシェを夢見ていた店長は、今頃どうしているだろう。

なぜそんなことを思ったのか、自分でも分からなかった。


次回 Season 3 #2「帳票と秀吉」 

毎朝、プリンターから吐き出される紙の束。35歳の元営業マンの、新しい朝が始まる。