旅する情シス Season 3 #2 帳票と秀吉



次の仕事が言い渡されたのは、書庫の片付けが終わった翌々日だった。

長嶋課長が僕の席に来て、短く言った。

「三浦くん、次はあれを頼む」

あれ、とは、プリンターの隣に積まれた紙の束のことだった。

毎朝、プリンターから出力される帳票がある。帳票とは、業務で使う定型の書類のことだ。

売上の集計、在庫の状況、経費の明細——そういったデータを、決まった形式で印刷したものだ。

それを仕分けして、棚の所定の場所に置く。配布先の部門名を、帳票に手書きで書く。

帳票を受け取りに来る部門の担当者が、自分の分を持っていく。

それだけの仕事だった。

書庫の片付けの次は、紙の仕分け。

長嶋課長は僕の顔を一瞬見て、何も言わずに去った。

表情を読まれたかもしれない、と思った。

それが少し、恥ずかしかった。



毎朝8時半。

プリンターが動き出す音で、僕の仕事が始まる。

ざっ、ざっ、と出力される帳票を受け取り、部門名を書いて、棚に置く。それを繰り返す。

他の同期は何をやっているか、なんとなく分かっていた。新システムの検討。要件定義の会議。ベンダーとの折衝。

情シスらしい、頭を使う仕事だ。

中田さんが僕の横を通るとき、帳票の束を見て、小さく鼻で笑った気がした。

気のせいかもしれない。

でも、気のせいにしておけなかった。

考えると、じわじわと何かが滲んでくる。

僻み。嫉み。それから、薄い恨み。

あいつらは検討をしている。僕は紙を仕分けしている。

35歳で、紙を仕分けしている。

だから、考えるのをやめた。

何も考えないようにして、ただ手だけを動かした。部門名を書く。棚に置く。部門名を書く。棚に置く。

時間が過ぎるのを、ただ耐えた。

耐えている、という自覚があった。それがまた、情けなかった。



帰り道、スマホをぼんやり眺めていたら、ある記事に目が止まった。

豊臣秀吉の話だった。

信長に仕えたばかりの秀吉が、最初に命じられた仕事は草履取りだったという。

冬の寒い朝、信長が草履を履くとき冷たくないように、秀吉は自分の懐で草履を温めていたと伝わっている。

雑用を、雑用のままにしなかった男の話だ。


スマホを閉じて、窓の外を見た。

電車の窓に、自分の顔が映っていた。

紙の仕分けを、紙の仕分けのままにしている男がいる。

その顔が、少し情けなかった。



翌朝、プリンターの前に立って、帳票の束を眺めた。

部門名を手書きで書いている。毎日、同じ部門名を、同じ順番で書いている。書き間違いのリスクがある。時間もかかる。

何より、読みにくい。


まず、ラベルを作った。

各部門名を印字した紙を、帳票に貼るためのラベルシールに出力する。手書きより速い。正確だ。読みやすい。


次に、棚を見た。

帳票を取りに来る部門の担当者は、朝、決まった時間にやってくる。でも棚の位置は、部門の名前順に固定されていた。

ドアから遠い棚に、一番早く来る部門の帳票が置いてある。毎朝、担当者は棚の奥まで歩いていく。

非効率だ、と思った。

棚の仕切りを動かせるようにした。ドアの近くに、朝一番に来る部門の帳票を置けるようにした。

取りに来る順番に、棚の位置を合わせた。


それだけのことだった。

でも、やりながら少し怖かった。

余計なことをした、と言われないか。勝手に変えるな、と怒られないか。

長嶋課長のあの大手メーカーの話を思い出した。取り出すのに何歩かかるか、と言っていた。

あれは、こういうことだったのかもしれない。

それを心の支えにして、棚を動かした。



翌朝、中田さんが棚の前で立ち止まった。

僕の方を見た。

「誰が棚を変えたんですか」

「僕です。取りに来る順番に合わせて——」

「誰の許可を取りましたか」

「……長嶋課長には、まだ」

「情シスの仕事は、勝手にやっていいものとそうじゃないものがある。営業じゃないんですから」

それだけ言って、中田さんは自分の席に戻った。

長嶋課長はいなかった。また外出中だった。


勝手にやっていいものとそうじゃないものがある。

その言葉が、ずっと頭の中で繰り返された。自分では良かれと思ってやったことが、ルール違反だったのか。

それとも中田さんが大げさなのか。

どちらかも分からなかった。


しばらくして、総務部の田村さんが帳票を取りに来た。

「あれ、取りやすくなりましたね」

「どうも」

素直に喜べなかった。



いつの頃からか、気がつくと僕は帳票を待っていた。

プリンターが動き出す音を聞くと、体が自然に動いていた。ラベルを確認する。棚の順番を整える。

今日は何部門が来るか、頭の中でシミュレーションする。


考えてみると、僕は毎朝、この会社のどの部門よりも早く、全部門の業務帳票に触れている。

どの部門が何を使っているか。どの帳票が毎日出て、どれが週次か。

この会社のITが生み出す情報の流れを、誰よりも先に、手で感じている。


これは、情報システムの仕事だ。

そう思えるようになったのは、いつ頃からだろう。



帰り道、電車の窓に映る自分の顔を見た。

4月のあの夜と、同じ顔だった。でも、どこか違う顔だった。

秀吉は草履を、草履のままにしなかった。

僕は帳票を、帳票のままにしなかった。

それだけのことだ。たぶん。


次回 Season 3 #3「CSV」 

紙をデータに変える仕事が来た。でも、最初に必要だったのは、技術ではなかった。