旅する情シス Season 3 #3 CSV
長嶋課長が僕の席に来たのは、帳票の仕分けがすっかり日課になった頃だった。
「三浦くん、次の仕事の話をしてもいいか」
「はい」
長嶋課長は、棚を眺めながら言った。
「この帳票、全部紙じゃなくてもいいものがある。CSVにしてみるか」
_CSVとは、データをカンマで区切って並べたファイル形式のことだ。
Excelで開ける、シンプルなデータファイルだと思えばいい。
紙に印刷せず、そのままデータとして各部門のパソコンに届ける。
受け取る側はフォルダを開けばいい。プリンターも紙も、いらなくなる。
僕は棚を見た。毎朝触れてきた帳票の束を。
なるほど、そういうことか。
「やってみます」
答えてから、少し焦った。
やってみます、と言ったが、何から始めればいいんだろう。
長嶋課長はもう歩き出していた。聞きそびれた。
まず、各部門を回った。
「この帳票、紙じゃなくてデータでもらえると助かりますか」
最初の部門を訪ねるとき、少し緊張した。
情シスの人間として、部門に話を聞きに行くのは初めてだった。営業時代とは、立場が違う。
経理部の坂本さんは即答した。
「むしろその方がいい。Excelに転記する手間がなくなる」
営業部の若い担当者は首を傾げた。
「データって、どこを見ればいいんですか」
総務部の田村さんは少し考えてから言った。
「印刷して上司に見せる必要があるんですよね、うちは」
反応がバラバラで、少し戸惑った。
全員が喜んでくれると思っていた。でも、そうじゃなかった。
ある部門では、中堅の担当者が言った。
「情シスって、こういうことをやりに来るんですか」
「はい。効率化のために——」
「前もそういうこと言って、結局何も変わらなかったですよ。情シスって、いつもそうじゃないですか」
言葉に詰まった。
前の担当者が、何かやりかけて放置したのか。詳細は分からなかった。
でも、その部門は「データでいい」とは言ってくれなかった。
___情シスって、いつもそうじゃないですか。
その言葉が、帰り道もずっと頭に残っていた。
ヒアリングの結果を表にまとめた。
どの部門が、どの帳票を、どの形式で受け取りたいか。
情シスの仕事も、人の話を聞くところから始まるらしい。
それは少し、意外だった。
次に、配信先のフォルダとアクセス権を決めた。
フォルダとは、パソコン上のファイルの保管場所のことだ。
そしてアクセス権とは、そのフォルダを誰が見られるかを決める設定のことだ。
経理部のデータを営業部が見られては困る。
当たり前のようで、一つ間違えると情報が漏れる。
整理しながら、何度か手が止まった。
これ、合ってるのかな。
自信が持てなかった。営業の仕事には、数字という答えがあった。
でもこの仕事は、正解がどこにあるのか、よく分からなかった。
長嶋課長に確認を取った。
長嶋課長は表を見て、一度だけうなずいた。
「いいな。これでマリ電算に依頼できる」
その「いいな」の一言が、思いのほか嬉しかった。
「三浦くん、これを書いてもらおうか」
長嶋課長が差し出したのは、薄い冊子だった。
要件定義書。
_要件定義書とは、システムに「何をしてほしいか」を文書化したものだ。
開発会社への発注書のようなものだと思えばいい。
名前は聞いたことがあった。でも書いたことは、一度もなかった。
「……書き方は」
「フォーマットがあるから、それを使えばいい。分からなければ聞いてくれ」
長嶋課長は、それだけ言って去った。
フォーマットを開いた。
分からない言葉が、並んでいる。
正直に言うと、半分くらいは意味が分からなかった。
隣を見ると、中田さんが画面を向いていた。
聞こうか、と思った。でも、聞けなかった。
また馬鹿にされる気がした。営業が要件定義書も読めないのか、と思われる気がした。
結局、長嶋課長のところに行った。
長嶋課長は毎回、短く、的確に答えた。余計なことは言わなかった。でも必要なことは、必ず教えてくれた。
この人は、僕を見ている。
そう感じたのは、この頃だった。
書庫の片付けから始まる仕事の順番。
ここに来て、ようやく気がついた。
最初から検討や開発を任せるのではなく、この部署の仕事を、地べたから覚えさせようとしているのかもしれない。
確かめる方法はなかった。でも、そう感じた。
要件定義書が完成して、マリ電算に依頼した。
初めて、外部のベンダーと打ち合わせをした。
マリ電算の担当者は、手慣れた様子で仕様を確認し、スケジュールを提示した。その手際に、少し圧倒された。
___この人たちは、プロだ。
テストが始まった。テスト計画書に沿って、一つずつ確認する。
CSVが正しく出力されるか。フォルダに届いているか。アクセス権は正しいか。
全項目、問題なかった。
テスト結果報告書に、完了の印を押した。
___これが、情シスの仕事か。
地味だった。
でも、確かな手応えがあった。書類に残る。記録として残る。誰かが後から見ても、何をしたか分かる。
営業の数字とは、違う種類の達成感だった。
退社前、長嶋課長が通りがかりに言った。
「お疲れさん。よくできてたよ」
それだけだった。
廊下を歩きながら、少し俯いた。
よくできてたよ。
その言葉が、静かに胸に落ちた。褒められ慣れていない、という感覚ではなかった。
ただ——この人が言うと、重みが違った。
帰り道、電車の中で、次の仕事のことを考えていた。
長嶋課長は、次に何を用意しているんだろう。
それが、少し楽しみだった。
でも——
___情シスって、いつもそうじゃないですか。
あの担当者の言葉が、また頭をよぎった。
仕事は完了した。
でも、何かが完了していない気がした。
その「何か」が何なのか、まだ分からなかった。
次回 Season 3 #4「ITパスポート」
ミーティングで、長嶋課長がぽつりと言った。昼休み、聞こえてしまった言葉がある。