旅する情シス Season 3 #4 ITパスポート


課のミーティングは、毎週月曜の朝だった。

その日も、いつも通り始まった。業務の進捗確認。来週の予定。特に変わったことはない、いつもの時間だった。

ミーティングの終わり際、長嶋課長が資料から目を離して、独り言のように言った。


「ITパスポートという資格ができたな」


誰も何も言わなかった。


_ITパスポートとは、ITに関する基礎的な知識を証明する国家資格だ。

技術的な知識だけでなく、経営戦略や業務改善など、ビジネス全般に関わるITの知識を幅広く問う試験で、

この年に新設されたばかりだった。


「会議の参加条件を、ITパスポートの取得にしようかな」


室内に、微妙な空気が流れた。


僕の隣で、中田さんがかすかに苦笑いするのが見えた。

他の先輩たちも、似たような顔をしていた。


誰も、本気にしていない。


この会社の情シスは、業務のスペシャリストが業務知識をベースに要件定義をする、という方針だった。

ITはパートナーに任せておけばいい。

そういう風潮が、確かにあった。だから、ITの資格を取る必要性を、誰も感じていなかった。


ミーティングはそのまま終わった。



システム運用課は、経理部門の出身者が中心だった。


中田さんもそうだった。

経理部で何年か働いてから、情シスに来たらしい。仕訳の話になると、急に饒舌になった。


この課に来てから、僕は先輩たちから軽視されていた、と思う。


あからさまなことは、何もなかった。

でも、会議で発言しても反応が薄かった。

書類を持っていくと、ちらりと見て「ああ」とだけ言われた。

廊下ですれ違っても、目が合わなかった。



ある昼休み、中田さんと別の先輩が話しているのが聞こえた。

僕がいることに、気づいていなかったのかもしれない。


「三浦さんって、営業でしょ」

「うん」

「どうせ、仕訳の漢字も正しく書けないでしょ。貸方借方も分からないでしょ」


小さく笑う声がした。



僕は聞こえなかったふりをした。席に戻って、画面を開いた。


手が、少し震えていた。怒りなのか、情けなさなのか、自分でも分からなかった。

聞こえなかったふりをした。それが、一番情けなかった。



その夜、帰り道でITパスポートのことを調べた。

試験まで、あと2ヶ月だった。

みんな、取る気がない。

なら、取ればいい。


正直に言うと、最初は意地だった。見返したかった。


長嶋課長のためでも、会社のためでもなく、ただ、あの笑い声に対する静かな反発だった。


それでいい、と思った。動機が何であれ、動けばいい。



その日から、勉強を始めた。


朝、出勤前の1時間。帰り道の電車の中。週末の午前中。

テキストを開いて、問題を解いて、間違えたところを確認する。それを繰り返した。

途中で、何度か挫けそうになった。


覚えられない用語が続いた週があった。模擬試験の点数が上がらない時期があった。

こんなことをして意味があるのか、と思った夜もあった。

取ったところで、何が変わるんだろう。


そう思いながらも、テキストを閉じなかった。


___閉じたら、負けた気がした。あの笑い声に。


ITの基礎知識は、業務の経験と結びつくと、急に腑に落ちた。

帳票の仕分けで触れた業務の流れ。CSVで意識したデータの形式。書庫の片付けで学んだ導線とコスト。


教科書の言葉が、あの経験と繋がっていった。


こういうことだったのか。


勉強しながら、何度かそう思った。

その瞬間だけは、少し楽しかった。



会場は、都内の専門学校だった。

受験者の大半は、学生だった。スーツ姿は少なかった。35歳のサラリーマンが一人、問題用紙に向かっていた。


試験中、何度か手が止まった。

これ、分からない。


深呼吸して、次の問題に進んだ。

試験が終わって、会場を出た。空が青かった。


できた、と思う。たぶん。


その「たぶん」が、いつもより少し小さかった。



結果が届いた日、長嶋課長に報告した。

「合格しました」

長嶋課長は、一瞬だけ目を細めた。

「そうか」

それだけだった。でも、その「そうか」の温度が、いつもと少し違った気がした。


課のメンバーへの周知は、特にしなかった。でも、伝わっていた。

中田さんが話しかけてきた。

「三浦さん、受かったんですか」

「ええ」

「すごいですね」

中田さんは、それだけ言った。いつもより少し、目が真剣だった。

あの笑い声のことは、言わなかった。言う必要もなかった。

他の先輩たちも、あからさまにバカにしてくることは、なくなった。劇的な変化ではなかった。でも、確かに変わった。

証明できることを、証明した。

それだけのことだ。



帰り道、電車の窓に映る自分の顔を見た。

少し、胸を張っていた。

長嶋課長は、あの朝、何を思ってあの言葉を呟いたのだろう。


答えは、たぶん聞けない。

でも——聞かなくていい、とも思っていた。


次回、Season 3 #5「画面の向こう」 

設定変更の依頼は、シンプルだった。でも、シンプルな仕事ほど、落とし穴が深い。