旅する情シス Season 3 #5 画面の向こう


ITパスポートに合格して、少し自信がついていた頃だった。

長嶋課長が僕の席に来て、唐突に聞いた。

「三浦くん、帳票の出力時間て、変えられること知ってるか」

「知りません」


長嶋課長は少し嬉しそうな顔をした。

この人は、部下が「知らない」と答えるとき、なぜか少し嬉しそうな顔をする。

最初は不思議だったけど、最近は少し分かってきた気がする。


「出力時間を早めると、帳票を使う次の業務が早く始められる。業務全体がスムーズになるんだ」

なるほど、と思った。

帳票は出力されて終わりじゃない。誰かがそれを使って、次の仕事を始める。

朝7時に出力されるのと、朝6時に出力されるのとでは、受け取った人の仕事の開始時間が1時間変わる。


当たり前のことだけど、考えたことがなかった。

「経理系の帳票の出力時間を、もう少し早めてくれ。マリ電算に依頼してみなさい」

「要件定義書は」

「今回はプログラムの変更じゃないから、いらない。設定変更だけだ」


設定変更。シンプルだ。

ITパスポートも取った。CSVの仕事も無事に終わった。これくらい、問題ない。


マリ電算の担当者に連絡した。

経理系帳票の出力スケジュールを、現行より1時間早める。それだけの依頼だった。

担当者は「承りました」と答えて、午前中に対応してくれた。

確認した。経理系の帳票が、設定通りの時間に出力されている。

完了だ、と思った。


昼食に出ようとした、その時だった。

内線が鳴った。

「情シスですか。物流部の橘ですが。今日の帳票、まだ出てないんですが」

僕の手が止まった。

「……確認します」

電話を切って、帳票の出力スケジュールを確認した。

頭が、一瞬白くなった。

システムの中では、複数の処理が順番に連なって動いている。これをジョブと呼ぶ。

経理系の帳票を早めたとき、その後ろに連なっていた物流系のジョブが、スケジュールのズレで後ろに押し出されていた。

電車の路線のようなものだ。一本の電車を早めると、後続の電車が詰まる。

物流部の帳票が、まだ出力されていない。


___まずい、まずい、


頭の中で、同じ言葉が繰り返された。

物流部は毎日、この帳票を元に当日の物流スケジュールを物流会社に連絡する。

連絡が遅れると、その日の配送が動かせない。

手が震えそうになるのを、ぐっと堪えた。

ITパスポートを取って、浮かれていたのか。僕は。


マリ電算に電話した。声が上ずらないように、意識しながら話した。

「至急、物流系のジョブを手動で回してください」

担当者は落ち着いた声で「分かりました、少々お待ちください」と言った。その数分が、やけに長かった。

長嶋課長に報告すべきか、と思った。

でも、まだ何も解決していない。中途半端な報告をしても、と思った。それとも、早く報告すべきなのか。判断が、つかなかった。


ジョブが手動で実行された。帳票が出力された。

僕は印刷された帳票を持って、物流部に走った。走りながら、どう謝ればいいか考えていた。でも、何も思い浮かばなかった。


物流部の橘さんは50代の、がっしりした男性だった。

僕が帳票を差し出すと、受け取りながら言った。

「間に合うかどうか、ギリギリだ」

それから、橘さんは言った。長く、丁寧に、こっぴどく。


物流は時間が命だということ。

1分遅れると物流会社への連絡が間に合わないということ。

情シスの変更一つで現場がどれだけ動くか分かっているのかということ。


僕は立ったまま、全部聞いた。

頭を下げ続けながら、情けなかった。上司の指示でやった仕事だ、とは言えなかった。

言い訳を探している自分が、もっと情けなかった。


資格を取って、少し有頂天になっていた自分が、一番情けなかった。

反論はなかった。全部、正しかった。


席に戻ると、長嶋課長がいた。

「物流部から連絡が来た。どうだった」

「怒られました」

長嶋課長は少し目を細めた。

「上司の指示だったのに、か」

「はい」

でも、上司を恨む気にはなれなかった。

それよりも、腹の底に、重く沈んでいくものがあった。


長嶋課長が静かに言った。

「システムのデータは、いろいろなシステムや業務とつながってる。変更には、細心の注意が必要だ。今日、それを覚えたか」

「覚えました」

「怒られたのは、お前だけじゃない。俺も確認が足りなかった」

長嶋課長はそれだけ言って、席に戻っていった。


長嶋課長の言葉が、少し救いになった。でも同時に、情けなかった。

長嶋課長に「俺も」と言わせてしまったことが。



帰り道、電車の窓に映る自分の顔を見た。

ITパスポートに合格して、少し胸を張っていた顔が、今日は俯いていた。


システムを変えるということは、誰かの仕事を変えるということだ。

その誰かは、物流会社に電話をかける橘さんかもしれない。夜中に配送トラックを動かす誰かかもしれない。

帳票の仕分けをしていた頃、毎朝あの帳票に触れていた。物流部の帳票があることも、知っていた。

でも、その先にある仕事のことは、考えていなかった。


___画面の向こうに、いつも人がいる。


自信がついた矢先に、これだ。

しばらく、橘さんの顔が頭から離れなかった。



次回 Season 3 #6「平穏」 

データが旅をする場所がある。三浦、初めて帳票の現場を見た日。