旅する情シス Season 3 #8 ノート


情報システム部に、原田さんという人がいた。

50代。細身で、いつも同じ紺色のカーディガンを着ていた。

声が小さくて、話しかけると「ああ」か「うん」しか返ってこない。

でも仕事は正確だった。少なくとも、そう言われていた。


原田さんが担当しているのは、ジョブスケジュールの管理だった。

ジョブスケジュールとは、システムが自動的に実行する処理の時間割のことだ。

経理の月次締め、給与の締め処理、帳票の配信——

そういった処理が、毎月決まったタイミングで自動的に動く。

それを一覧にして、社内の掲示板に上げる。関係

する部門が「いつ、何の処理が動くか」を確認できるようにするためだ。

処理の数は、約30。

そのスケジュール表を、原田さんは毎月、手書きで作っていた。



ある月、原田さんが体調を崩した。


長嶋課長から言われた。

「三浦くん、今月のジョブスケジュール、原田さんに教わって作ってくれ」

原田さんのデスクに行った。原田さんは咳をしながら、引き出しから古びたノートを取り出した。

「これ」

それだけだった。


ノートを開いた。

びっしりと手書きの文字が並んでいた。処理名、実行日、担当者、備考。

しかし書き方に統一感がなかった。略語が混在していた。日付の書き方がページによって違った。

「この処理は、毎月何日に動くんですか」

「営業日で数える。土日は動かない」

「この略語は何ですか」

「給与の締めのこと」

「Excelのマクロを使えば、自動で営業日が計算できますよね」


原田さんは少し間を置いた。

「今のやり方で問題ない」

それだけだった。


その月のジョブスケジュールを、原田さんのやり方で作った。


ノートを見ながら、一つずつ手書きで転記する。営業日を手動で数える。間違えないように、何度も確認する。

2時間かかった。


Excelのマクロを使えば、30分でできる。

それは分かっていた。

月初の営業日を自動で計算して、処理ごとのオフセット日数を設定すれば、ボタン一つでスケジュール表が完成する。

誰でも更新できる。引き継ぎも簡単になる。

でも、原田さんはそれをしなかった。10年間、手書きでやり続けてきた。

なぜ、変えないんだろう。


その問いの答えを、僕はまだ知らなかった。

作り終えて、掲示板にアップした。


翌朝、経理部から内線が来た。

「ジョブスケジュール、3番の処理の日付、先月と変わってないですよね。今月は月末が土曜日なので、繰り上がるはずですが」

確認した。間違えていた。

原田さんのノートの記載が分かりにくくて、営業日の数え方を間違えていた。

修正して再アップした。


経理部の担当者は「分かりました」と言ってくれたが、電話口の声に、わずかな溜息が混じっていた気がした。


ミスをした。原田さんのノートが分かりにくかった。でも、確認が足りなかった僕のミスだ。

どちらも正しかった。だから、余計に情けなかった。


翌月、原田さんに提案した。


Excelで作ったサンプルを見せた。

営業日を自動計算する数式。処理ごとのスケジュールが一覧で見える表。見やすくて、正確で、誰でも更新できる。


原田さんは画面を見た。

少し間があった。

「今のやり方で問題ない」

前回と、全く同じ言葉だった。

「でも、引き継ぎのときに——」

「俺がいる間は問題ない」

それだけだった。

僕はExcelのファイルを閉じた。


長嶋課長に報告した。

「そうか」

それ以上何も言わなかった。


しばらくして、長嶋課長が静かに言った。

「原田さんのジョブスケジュール、どう思う」

「効率化できると思います。Excelのマクロで——」

「俺もそう思う」

長嶋課長は少し間を置いた。

「でも、原田さんは変えない」

「なぜですか」


長嶋課長は窓の外を見た。

「人には、自分のやり方がある。それが正しいかどうかより、それが自分だ、という感覚がある人がいる」


僕は黙っていた。

「原田さんは悪い人じゃない。仕事も正確だ。でも——あのノートが、原田さん以外には読めない。それは問題だ」


__属人化。ブラックボックス化。


システムの中身が、一人の人間の頭とノートの中にしかない状態。

その人がいなくなったとき、誰も分からなくなる。


以前、サコ電気の田所さんが言っていた言葉を思い出した。


「当日に問題が起きると、支店の業務を止めることになります。現地調査で全部潰しておく。」


田所さんは、情報をチームで共有していた。

一人の頭の中に留めていなかった。だから、誰かが休んでも対応できた。


翌月も、翌々月も、原田さんは手書きでジョブスケジュールを作り続けた。

僕は何もできなかった。


正しいと思っていた。効率的だと思っていた。長嶋課長も同じように感じていた。でも、変えられなかった。

情シスの仕事は、技術や正しさだけでは動かない。人が動かなければ、何も変わらない。

それが悔しかった。でも同時に——それが現実だとも、分かっていた。


原田さんが定年退職したのは、僕が別の課に異動する少し前だった。

引き継ぎのとき、古びたノートが僕の手に渡った。

ノートを開いた。びっしりと手書きの文字。略語。統一感のない日付。

これが、10年分だ。

いろいろな思考が頭をめぐったが、言葉にならなかった。何か重いものが胸に残った。


翌月から、僕はExcelでジョブスケジュールを作り始めた。

誰も何も言わなかった。

ただ、長嶋課長だけが、掲示板に上がった新しいスケジュール表を見て、静かにうなずいた気がした。


帰り道、電車の窓に映る自分の顔を見た。


変えられなかった。

それが、答えだった。


組織の中には、正しさだけでは動かないものがある。

人が動かなければ、何も変わらない。


それを知ったのも——情シスの仕事だった。


次回 Season 3 #9「それぞれの正しさ」 

監査からの指摘。500の権限。そして、中田さんとの__